安楽死推進委員会

ブログタイトルは記事と特に関係ない

「FF外から失礼します」に違和感を覚えなくなったネット世界――ネット上におけるマジョリティの変化

最近は流石に見かけなくなったが、かつてインターネットが一般家庭に普及し始めたゼロ年代前半からしばらくの間は、テレビ等で「(若者の)現実をネット世界が侵食している」といった批判的な言説を度々見かけることがあった。
一昔前であればパソコンやケータイ、ここ数年ではスマホの画面を一日中見つめている人々の姿は、傍から見ると確かに現実を忘れてネットに侵されているように見える。

だが、自分のような旧来からのネットユーザーからしてみると、むしろここ数年は逆のことが起きていて、ネット世界はずいぶんと現実に侵食されてきていると感じる。
それを表してるのがこの記事だろう。

「FF外から失礼します」に違和感を覚える人は、完全に遅れている(熊代 亨) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

かつてのネットは誰もがハンドルネームを名乗り、年齢や職業などに関係なくマナーを守れば誰もが平等に他人とやり取りできる場所、という共通認識がどこのコミュニティにおいても存在していた。
それはネットを題材としたゼロ年代当時のドラマ(例:『電車男』)などの描写からも容易に伺うことできる。

しかし、この2017年現在でもそういった認識を持っているネットユーザーは少数派だろう。
現実での社会的地位の高さがそのままSNSのフォロワー数として反映され、そのフォロワー数が多ければ多いほど発言に価値があるとされる昨今のネット社会では、発言主が匿名というだけで、たとえどんなに正しいことを言っていても無視されたり、理不尽なレッテルを張られて一蹴されることが珍しくない。

ネット世界がここまで変わったきっかけは、2008年のFacebook日本語版のサービス開始だったと考えている。
当時の2ちゃんをはじめとした匿名掲示板のヘビーユーザーたちにとって、Facebookの登場はそれこそ黒船来航のような衝撃があった。
ネット世界を現実からの逃避先としていた者たちにとって、実名でアカウントを登録し、本人の顔写真をアイコンにして、年齢、学歴、職業、家族構成など個人情報をあれほどまでにオープンに掲載することを是とするSNSの登場とその発展はまさしく脅威だった。

ここで若干話が逸れるが、Facebookに関して今でも個人的に解せないのは、他のサイトでは肖像権に配慮されて絶対に載せられることのない個人の顔の写った写真が、Facebookではなぜか平然と勝手にアップロードされてシェアされることが許されていることだ。
本人の許諾なく写真を載せてもFacebook上では許される、という謎のルールが罷り通っているのはどう考えてもおかしいのだが、普段プライバシー権に煩い高校の情報科の教員でさえ平然とやっているのを見ると、彼らは感覚が麻痺しているとしか思えなくなる。

閑話休題
この先、表のネット世界はますます現実とのつながりが強くなっていくだろう。
Instagramなどを見ていると、利用者のSNS上の評価――つまり「いいね」の数と現実の個人の社会的評価はもはや直結してるように見受けられる。
上で挙げた記事のなかでも言及されているが、こうしたSNSの利用者たちにとって、ネットは自らの社会的評価を高めるためのアクセサリでしかない。
今後、彼らは自らの評価を数値化して誇示する手段をより強く求めるようになるだろう。

一方、かつてインターネットにユートピア的幻想を抱いていた人たちは、こうした現実に近いSNSからできるだけ距離を取り、自分たちの"平和な世界"に籠ろうとしている姿が散見される。
ただ、10年前頃までならともかく今のネット上では、権利関係が曖昧な匿名のコミュニティで何か面白いムーブメントが発生すると、即座にバイラルメディアによってまとめられ、アフィリエイターたちの餌として拡散、消費されてしまう。
そのため彼らがアングラであり続けようとしてもそれを維持し続けるのは難しいだろう。

今年上半期にブームとなった、マストドンはある程度の人口の流動性や外部との交流を持ちながら、それでいてTwitterほどオープン過ぎない、やや村社会的なSNSで、管理者が個人のインスタンスは営利目的でない完全な趣味として運営されており、かつての掲示板サイトのような穏やかな雰囲気を持っているところがあるため、こうした"ネット難民"たちの受け皿となっている一面がある。
この先発展していくか、それとも衰退していくかはインスタンスによって様々だろうが、ブームから数ヵ月が経過した現在でも一定のアクティブユーザー数を維持しているインスタンス確かに存在しインスタンスごとにテーマが分かれていて住民の間でトラブルが起きにくいことから、管理者による自治の行き届いているところはこの先数年に渡って緩やかに継続、発展していく可能性がある。

ここ数年間、Twitterでよく見かけた「顔出し実名アカウント」と「匿名アニメアイコン」のリプライのやり取りは見ていてどうも違和感が拭いきれなかった。
例えお互い敬語で穏やかに会話していても、両者のそれまで生きてきた文脈とそれに基づく価値観の相違がそこには歴然として横たわっていて、お互い相容れない存在であることを強く感じさせた。
だから昔のように再び"住み分け"が進む最近のネットの動向には非常に納得の行くところがある。
1つのSNSに誰も彼もが集まっていたここ数年の状況が可笑しかったのだ。

価値観の合わない者がすぐそばに大勢いるような環境でそれを気にしながら発言していても心から楽しめるわけがない。
そういった現実のしがらみに縛られずに伸び伸びと情報発信できるところがインターネットの良いところなのだから、それを忘れてしまわないようにしたい。

体調不良時の思考パターンについて

今年に入って何度目だろうか。
風邪で体調を崩し、昨日は日曜ということもあって自室の布団で一日中寝ていた(正確にはずっと入眠していたわけではなく、投薬のために起き上がったり横になった状態でスマホを眺めていた時間もあったが、自分の感覚としては正しいのでこの表現を使っている)。

引きこもっていた頃はそれこそ年単位で風邪を引くことはなかったものの、高校に入学してからは3か月に1度くらいのペースで風邪を引いて、その度に1,2週間は体調不良が続く。

体調を崩してしまうと、普段勉学に打ち込むことで抑えている希死念慮に歯止めが効かなくなる。
自分の取り柄はこの頭しか無いのに、それが体調不良によってまともに機能しなくなると、本当に何のために生きているのかわからなくなる。
自分を肯定できる要素が何も無くなってしまう。

普通の人(差別的な意味に聞こえるかもしれないが、自分に認知の歪みが起きているのはおそらく事実で、そういった状態にない健全な人のことを指している)は体調を崩したとき、どんなことを考えながら布団やベッドの上で過ごしているのだろうか。

自分の場合、何か胃にやさしいご飯が食べたい、柔らかい布団で延々と眠っていたい、誰かがこの手を握っていてくれたらといった原始的な欲求と、そういった欲求しか持てないことに対する自己嫌悪感、そしてひとつ前の記事で見られるような厭世的な思考の3つで頭のなかが一杯になる。
「体調良くなったら○○したいから早く治そう」とか「この苦しみがいつまでも続くわけじゃないから頑張ろう」といった前向きな考えが生まれることはほとんどない。
それがどうしてなのかはわからない。

きっと多くの普通の人は、こういう状況のときに助けてくれる友人や恋人といった人間関係があるのだろう。
自分にはそれが無い。
中学1年から10年間引きこもり続けて、同年代に限らず誰とも交流を持たずに生きてきたのだから当然なのかもしれない。

それでも、上で挙げたような心の状態に今あるのは事実で、それはとてもつらかった。

自分の自己肯定感について

思い返すと小学生のころから、所属してるコミュニティの中で何か特定の分野で一番になる、つまりは"できる人"として周りから扱われることで自分の存在意義を見出していた。
だけど、その自己有用感なんてものは所詮小さな集団でしか通用しないものでしかなくて、もっと大きなコミュニティへの移行、例えば小学校から中学校への進級なんかでも簡単に打ち砕かれてしまう。
当時は努力することが極端に苦手な性格だったこともあって、時間が経つにつれ周りの人間に追い付かれ、そしてどんどん引き離されていった。
その状況に耐えられなくて、学校へ行けなくなって引きこもり始めたのも、今思えば時間の問題だったのかもしれない。

学業や仕事、スポーツ、芸術などで特別な才能を持たない、いわゆる"普通の人"が、一体どうやって自己肯定感を維持できているのか、それを想像することは自分にはとても難しい。
ネット上でもリアルでも、社会のなかでの自分の立ち位置、交換可能な存在でしかないという事実を毎日のように感じる瞬間がある。

それは例えば、人から「ありがとう」と言われたときでさえ当てはまる。
自分が行った行為に対して誰かからそれを言われても、それは行為を行った人間がたまたま自分であったから感謝を示されただけであって、行為を行うのが自分でなければいけなかったという必然性がそこに存在するわけではない。
よって、それによって自分の心が本当に満たされることはない。

こんなことを考えるのは馬鹿げていて、実際は物事の捉え方が間違っているだけなのかもしれない。
だけど、例えそうであっても、こうした考えはほとんど無意識的に自分のなかで生成されるものだから、意識して考えないようにするのは難しい。
それこそ、何かに夢中になるくらいしか解決策は存在しないように思えてならない。

そして、その現実逃避すらだんだん難しくなってきているのを最近は感じる。
かつて自分にとって何よりも大切だった、音楽やゲーム、小説、漫画やアニメやドラマ・・・。
そういった物に対する熱意が、年々歳を取る毎に持てなくなってきている。
かと言って、新しい趣味を始めるだけの気力はもう残ってはいない。

この先の未来に待ち受けているのは、趣味への情熱さえ失い、ただ生命活動を維持するためだけに生きる、もはや人と言えるのかもわからない成れの果ての姿なのかもしれない。
そんなことを予想しながら、日々を生き続けるのは空しい。