安楽死推進委員会

ブログタイトルは記事と特に関係ない

自分の自己肯定感について

思い返すと小学生のころから、所属してるコミュニティの中で何か特定の分野で一番になる、つまりは"できる人"として周りから扱われることで自分の存在意義を見出していた。
だけど、その自己有用感なんてものは所詮小さな集団でしか通用しないものでしかなくて、もっと大きなコミュニティへの移行、例えば小学校から中学校への進級なんかでも簡単に打ち砕かれてしまう。
当時は努力することが極端に苦手な性格だったこともあって、時間が経つにつれ周りの人間に追い付かれ、そしてどんどん引き離されていった。
その状況に耐えられなくて、学校へ行けなくなって引きこもり始めたのも、今思えば時間の問題だったのかもしれない。

学業や仕事、スポーツ、芸術などで特別な才能を持たない、いわゆる"普通の人"が、一体どうやって自己肯定感を維持できているのか、それを想像することは自分にはとても難しい。
ネット上でもリアルでも、社会のなかでの自分の立ち位置、交換可能な存在でしかないという事実を毎日のように感じる瞬間がある。

それは例えば、人から「ありがとう」と言われたときでさえ当てはまる。
自分が行った行為に対して誰かからそれを言われても、それは行為を行った人間がたまたま自分であったから感謝を示されただけであって、行為を行うのが自分でなければいけなかったという必然性がそこに存在するわけではない。
よって、それによって自分の心が本当に満たされることはない。

こんなことを考えるのは馬鹿げていて、実際は物事の捉え方が間違っているだけなのかもしれない。
だけど、例えそうであっても、こうした考えはほとんど無意識的に自分のなかで生成されるものだから、意識して考えないようにするのは難しい。
それこそ、何かに夢中になるくらいしか解決策は存在しないように思えてならない。

そして、その現実逃避すらだんだん難しくなってきているのを最近は感じる。
かつて自分にとって何よりも大切だった、音楽やゲーム、小説、漫画やアニメやドラマ・・・。
そういった物に対する熱意が、年々歳を取る毎に持てなくなってきている。
かと言って、新しい趣味を始めるだけの気力はもう残ってはいない。

この先の未来に待ち受けているのは、趣味への情熱さえ失い、ただ生命活動を維持するためだけに生きる、もはや人と言えるのかもわからない成れの果ての姿なのかもしれない。
そんなことを予想しながら、日々を生き続けるのは空しい。